ガス・ヴァン・サントの死の三部作のうちのひとつ。
残りは『GERRYジェリー』と『ラストデイズ』。
どれも人が死に直面した時、どの様に想い、振る舞うか?というのが共通のテーマ。
『ラストデイズ』はニルバーナのカート・コバーンをモデルにしていると言われているが、
実際のところほとんどモデルではない。
(カートの伝記だと思って見て、失望した人数知れず)
同様に『エレファント』はコロンバイン高校の銃乱射事件をモデルとしていると
いわれてはいるが、同じくらいその事件の丸写しではない。
人それぞれの死に方は極めて固有的であり、そのときの行動や心情は
さらに固有性を帯びている。
立証・検証は永遠に不可能でもある。
舞台はオレゴン州ポートランド。
(サントはポートランド出身。ポートランド三部作ともいわれる)
ごく普通の高校生たちのごく普通の一日を描いただけの映画で、
時間とカメラ視点はそれぞれの登場人物の数だけ存在する。
ここでは製作者側の意図や感情の加担は一切描かれていない。
廊下で三人がすれ違うだけでも三人の視点と時間が存在する。
ということはカメラはどこにも存在していない
(通常の映画では役者はカメラを見ることは不自然にも禁止されており、
劇中では唯一の虚点として存在してはいけない点が残ってしまう)ということになる。
何度も多視点で描かれている出来事は「廊下ですれ違うこと」も
「恋愛の噂話をすること」も「銃で学友を殺すこと」も何気なく、
決して特別のこととして描かれていない。。。
これらのことにいわゆる一般社会的な倫理観で望んでしまうと
完全に置き去りを食ってしまうのだ。
さて、銃の乱射をする子たちは兄弟として描かれており、
商品を通販で買い求め、子供部屋で受け取る、、、というごく普通の子供たちである。
商品が銃ということをのぞいては
(だがこれもアメリカ社会では銃を通販で容易に購入出来ることを表してもいる)だが。
そして象の絵が子供の部屋の壁に貼ってはあり、
弟は何度も何度も「エリーゼのために」を練習している。
映画の題名になっている象の絵が何の意味を持たない様に「エリーゼのために」も
別に兄弟の精神的な狂いを表している訳でもない。
子供部屋にいない全てのアメリカ国民マイナス2(兄弟をのぞいて)の
狂いつつある精神状態、もしくはこの映画を見ている私達を含む狂いつつある
全ての観客に向けての鎮魂歌の様に聞こえて仕方がないのである。。。
ここでもベートーベンの「エリーゼのために」は劇中サントラではなく、
狂ってはいない誰かが、狂いつつある誰かに向けて演奏しているのである。
面白いとは思いませんか?


西海岸のとある街で。
photo:tomo suzuki